国分寺の歴史・由来
伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。
国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(?〜862?)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。
幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存されている。
四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しつのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。
今治の町中にあるお寺ですね。大きめのスーパーがあるのでいろいろ食料を買っておきたいところです。
駐車場からの階段をあがると左が納経所で右が本堂という看板がありました。
右の本堂に行きましょう。
右を向くと鐘がありましたが、ここの鐘は撞けないようです。残念。
町の中にあるお寺は鐘が撞けないところがけっこう多いですね。
山奥のお寺はだいたい鐘が撞けます。
手水の奥に「とくとく弁天様」とやらがあるのでお参りしておきますか。
なんとなくお得な気分になりますね。
正面に本堂があるのでロウソク・線香・お賽銭・納札・お経を納めます。
願い事を一つ思いながら握手をするとかなうらしいですよ。
おへんろで大師と握手!ってスーパーヒーロータイムとかの後楽園アトラクションみたいだな。
撫でると良くなるみたいです。
弘法大師伝説は色々と凄いものがあるんだけど、これはさすがにうさんくさいなあ。
奥には七福神などの他にもお地蔵さんがたくさん並んでいました。
以上、59番札所「国分寺」でした。またね。
と思ったその瞬間。
車の近くにインターネットを見たという袋を持った女性が来てくれていました。
袋には別子飴と芋きセットとうどんが入っていました、ありがとう!
晩御飯は芋炊きの鍋ものをお腹いっぱい食べました。おいしいね!そして別子飴でデザートです。
ごちそうさまでした!