国分寺の歴史・由来
創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が国の特別史蹟。本堂は、全面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。また周辺には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、唐招提寺の金堂に匹敵する規模を思わせます。また、山門の右手には七重の塔の礎石も残っており、現存していれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったといわれています。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が巨大な十一面千手観音像を刻み、本尊としました。その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。藩主・生駒氏や松平氏によって再興され、今に至ります。
また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘(ぼんしょう)。当時の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町(ちょう)と引き換えに手に入れます。ところが、城へ運ぼうとすると思ったより重く、ひと苦労。しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた 一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へ帰りたい」と泣くのです。そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。城に運んだ時と違い、今度はなぜか軽々と運べた上、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っています。
四国お遍路80番札所「国分寺」に来ています。
このへんは住宅街の真ん中のような感じで平らな場所なのでとても歩きやすいですね。
ん?よく見たら「門前にいる人達にお金をあげないで下さい。当山」と書いてあります。
そういえば托鉢の人のような?仙人のような人が門の近くにいるのを見ましたが、その人達の事なのかなあ?
お賽銭したらダメなんですね。
門をくぐるとまっすぐな白い石が正面の本堂まで続いています。両脇は松ですね。
千体地蔵と書いてあったので千体の地蔵があるのかと思ったらお堂の中にあるようです。
扉が閉まっていて、お地蔵様は千体見れませんでした。残念です。
柱に何かの呪文のような日本語が書いてありますが、読めるけど、意味がわかりません。
とりあえず撞きますね。
ごーん。
昔々、弘法大師様がこのお寺に来た時に、本堂の仏像が壊れていました。
これはひどい。私が修理します。
という事で修理するときに使った木がこちら、というお話です。
かなりねじくれてますね。
カエルの石像とカメの石像があるとおもったらカメは生きてました。動いたから驚いたよ。
こちらが大師堂ですね。大師堂でロウソク・線香・お賽銭・納札・お経を納めます。
大師堂の中が納経所になっているので納経所で御朱印を書いてもらいます。
以上、80番札所「国分寺」でした。またね!