天皇寺の歴史・由来
寺伝によると、天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。大師が弘仁年間(810〜24)にこの地方を訪ね、弥そ場という沢水が落ちる霊域にきた際、ひとりの天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。この天童は、金山を鎮守する金山権現であった。天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号した。大師はまた、弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであった。
保元元年(1156)7月、崇徳上皇(天皇在位1123〜41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御された。二条天皇(在位1158〜65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242〜46)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっている。
その神社の左側にお寺がありました。
ツカ「こんにちは、どのへんの県から来てますか?」
「千葉と神奈川からです。」
ツカ「何日くらい歩いてますか?」
「5日間くらいづつ歩いてますね、今年で5年目ですよ。今回は70番のお寺から回ってます。」
ツカ「なるほど、5年目ですか。おきをつけて。」
そういうスタイルの人もいるんですね。
さて。
よく見るとこの鳥居は3つの鳥居がくっついた鳥居でとても珍しい鳥居になっていますね。
「三輪鳥居」というものです。
お寺へはこの鳥居をくぐってから入ります。
左側に本堂が見えました。本堂でロウソク・線香・お賽銭・納札・お経を納めます。
鐘もありましたが、撞く丸太がありませんでした。撞けないようです、残念。
以上、79番札所「天皇寺」でした。またね!