四国お遍路の55番札所「南光坊」に来ています。
南光坊の歴史・由来
四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。
縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。
のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。
さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。
太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。
この門には阿吽の像ではなく持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王が設置されていて、
天井からヒモが垂れているのでこのヒモを引くと鐘が撞けるようになっています。
引いてみましょう。
ごーん。
ちょっと軽めの音がしましたが、引っ張る力が足りなかっただけのようです。
正面が本堂、右に大師堂と手水、左に宿坊、宿坊の奥に納経所があります。
本堂の隣に讃岐の金比羅宮から勧請している金比羅大権現を祀る金毘羅堂があります。
おへんろさんに話しかけてみましょう。
ツカ「こんにちは、どちらから来ましたか?」
「沖縄からです。」
ツカ「何日くらい歩いてますか?」
「何年かにわけて春と秋だけ歩いているので、今回は始めたばかりですね。」
ツカ「ありがとうございました。」
沖縄から北海道までの全国いろいろな県から来るんだなあ。外国の人も多いし、さすがお遍路だね。
以上、55番札所「南光坊」でした。またね。