郷照寺の歴史・由来
境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の正面玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。
京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832〜909)がこの寺に籠山し修行したのは仁寿年間(851〜54)とされ、また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942〜1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985〜87)とされている。さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者である高野山の道範阿闇梨が流罪となったとき、この寺を仮寓にした。「時宗」の開祖・一遍上人(1239〜89)は、正応元年(1288)に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開くなど、真言・念仏の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となる。なお、道場寺を「郷照寺」と改めたのは、寛文4年(1664)のことである。
こんにちは宇崎ツカです。
四国お遍路78番札所「郷照寺」に来ています。
かなり町の中にあるお寺ですね。海が良く見えます。
バイクのお遍路さんがいたので話しかけてみましょう。
ツカ「こんにちは、順番にまわっている感じですか?」
「そのつもりで回ってますよ。今回は自分の死に装束を作ってるとこです。」
ツカ「なるほど、四国のかたは、いっしょに燃やすんですか?」
「宗教によるけど、うちはそうしてるね。一人一冊でいっしょに燃やしてる。」
ツカ「そうですか。お気をつけて。」
お寺の入口と鐘が見えますね。
この鐘の音はとてもクリアな音で、海を越えた広島まで聞こえるそうですよ。さっそく撞いてみましょうか。
ごーん!
これで広島まで音がきこえましたね!さすが弘法大師です。
階段をあがって境内に入ると、左側に納経所があり、右側に本堂があります。
こちらが本堂ですね。ロウソク・線香・お賽銭・納札・お経を納めます。
撫で仏は撫でると撫でたところの病気が治ります。
僕は鼻炎なので鼻を撫でました。
なでなで。
こちらは「ぽっくりさま」という名称で祈ると死ぬときは苦しまずにぽっくりと逝くそうです。
わお、観音様がたくさん設置された施設が地下に広がっていますね。
びっしりと観音様がいらっしゃいます。
今から六百年ほど前のこと、郷照寺に臨阿という歌や詩を作るのが好きなお坊さんがいました。当時の領主、細川頼之に気に入られ、寺はたいへん盛えていました。ところが臨阿は都の大きなお寺に招かれて行ってしまうことになったのです。そんなある日、臨阿は犬に追われていた子ダヌキを助け、傷の手当をし、大事に世話をしてから放してやりました。臨阿が都に行ってから、戦争や飢饉で寺は荒れ、悪人がたびたび住みつこうとしました。ところが、いつもタヌキのお化けが現れ、悪人たちをこらしめたといいます。それからは、近くの信心深い人々によって寺は守られ、お参りする人も絶えませんでした。そこで、タヌキが寺を守ってくれたということで「常盤明神」という寺の守護神として祀られるようになってということです。そのせいか、このあたりでは、今でも犬を飼わないそうです。
以上、78番札所「郷照寺」でした。またね!