宝寿寺の歴史・由来
JR伊予小松駅から西へ歩いて1分、100m近い。境内は、しっとりとした日本庭園の風情が満ちており、遍路の気分を和ませてくれる。往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。
縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位724〜49)は諸国に一の宮を造営した。その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(?〜744四)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806〜10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、さらに明治維新の廃仏毀釈令に遭い、明治10年に再建されている。
四国お遍路62番札所「宝寿寺」に来ています。
線路沿いにあるお寺で、すぐそこに駅があります。
駅前の道路沿いにある寺で、線路と道路に挟まれた場所にあります。
わりとやかましい音がしますね。
本尊は十一面観世音菩薩ですが大悲殿と書いてあります。
大悲とは観音菩薩の別名で、衆生の苦しみを救おうとする仏や菩薩の広大な慈悲の心を表す。つまり、大悲殿とは聖観音や千手観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物のこと。建物自体に大悲殿と名付けている場合は少なく、観音菩薩を本尊として祀る寺院の場合は本堂を、本尊以外に霊場本尊や札所本尊として別の建物に祀る場合は観音堂を指す。御朱印の中央に墨書されることがある。
要するに(略)みたいなものですよ。
特にこれといったものも無く、こじんまりとしたお寺ですね。電車が通るとやかましいです。
そして201703月に裁判で霊場会辞めますという事が決定しています。
どういう事なのかというと、四国の88ヶ所霊場は『四国八十八ヶ所霊場会』という会に会費を払う事になっているんですが、この寺の住職が会費を払わない。そして納経所の受付時間を守らない。
という事で、さっさと会費払って受付時間を守れよって霊場会が言った。
寺の住職がシカト。
そして裁判へ。
結果的に裁判所は、霊場会の訴えを退けて、宝寿寺の主張どおり、霊場会からの脱会を認めました。
ここのお寺が霊場会から脱退したので、霊場会は新たに62番の札所を、61番のお寺の駐車場に作りました。
お寺が納経所の受付時間を守らないから御朱印もらえない参拝者がいる事が問題、だから霊場会が時間を守れる納経所を新しく作った。という流れです。
現状は62番の御朱印をもらえる場所が2ヶ所あるという事ですね。
まあでも脱会するって言ったのここのお寺だし希望通りの結果になって良かったんじゃないですかね。
結果的に御朱印のお金が入らなくなって質素な生活が待ち受けていますが、それが住職の決断です。
88ヶ所じゃなくてもやっていけてるお寺たくさんあるし、普通の寺院に戻るだけですから特に問題無いみたいですよ。
ここのお寺は裁判までおこして霊場会を脱会したという住職の決意を踏まえて、行かないほうが良いですね。行くとかえって迷惑がかかると思います。
元々、住職が就任した時から、参拝者に暴言を吐いたり、抗議した参拝者を殴るなどの暴行を加えたりして、裁判で訴えられてる人で、御朱印をもらえなかった巡礼者などから霊場会に苦情が相次いでいるという問題寺だったそうです。
何もしなくても勝手に人が来てお金を落としていくのがあたりまえなので、暴君になってしまったような感じですかね。
嫌なら来るな、文句言うなら辞めてやる、みたいな態度してたら、本当に辞めさせられてしまった系のストーリーのようです。
裁判ではお寺側が和解を求めたそうですが、霊場会側は突っぱねて切り捨てたそうですよ。自分で辞めるって言っておきながら、やっぱ辞めたくないっす。和解させて欲しいっす。みたいなやり取りしてたとか。
自業自得とはまさにこの事ですね。